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トルコが教えてくれたこと

トルコでの10ヶ月間、私はクルド問題を切り口とした学びを通して「集団対立の本質」を追いかけ続けていました。
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そして、小学校、中学校時代に多くのトラブルに巻き込まれ、「社会構造の暴力」の理不尽の痛みを知った一人の人間として「人間が、差別や、暴力のような忌まわしいことに手を染める弱さはどこにあるのか。」「その弱さを克服するにはどうすればいいのか。」そういった問へのヒントを考えたいと思っていました。

しかし、「集団対立の本質」に迫ろうと、私がもがけばもがくほど、頭は混乱していきます。

なぜでしょうか。それは、「対立」の当事者は、あらゆる側面を持つ事象の中から、「自分たちが受けた苦しみ」のみを切り取って、それがあたかも全体像かのように語るからです。クルド問題でもそれは顕著です。

あるトルコ人の友人は、「非武装の警官がクルド人に襲われ、殉職した」というニュースを私に見せ、「トルコ人はこれほど妥協して、和解プロセスなどを進め、クルド人の人権を拡大してきたのに、まだ罪のないトルコの若者が犠牲になっている。クルド系武装組織PKKはテロリストだ。」と憤ります。

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しかし、クルドの友人は、「和解プロセスなんてものはない。30年前までは、戦闘ではゲリラも民間人も関係なく、村ぐるみ焼かれてきた。逃げた先の都市部では差別される。」と、我々に苦難の歴史を語ります。フィールドワークで訪れたクルド人居住区に行けば、政府から見ればテロ組織であるはずのPKKを礼賛するメッセージが至るところに。

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多くのクルド人から見れば、それらの組織は「長年、クルド人の存在すらも無視してきたトルコ政府の抑圧から自分たちを解放し、権利を拡大し、国際社会に自分たちの窮状が知らされる契機をつくった英雄」なのです。トルコ人、クルド人、どちらも嘘はついていません。どの事例も、この紛争を理解する上で欠かせない視点を持っています。

私にはトルコ人、クルド人の「一方的に紛争を語る」行為を責めることなど到底できません。彼らが流してきた血と涙、仲間や家族の命を奪われる理不尽さの重みなど、21年もの間日本という温室で平和をただただ当たり前に享受してきた私に、理解などできるはずがないのです。

ホロコーストで自ら収容所に送られたにもかかわらず、「許すことと理解することは違う。ホロコーストという人類への罪を繰り返さないためには、民族などの立場を超えて、虐殺に加担したユダヤ人の存在があったという不都合な事実も直視しなければならない。」と主張し続けたユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントのように、憎しみを超えてフェアに物事を見ることは、大多数の人間にとっては非常に困難でしょう。「いったい、平和ボケした自分に何ができるというのだろう。」と、無力感に襲われました。

そうして悶々とした思いを抱えているうちに、こう思いました。「そもそも民族って何なんだよ。自分がトルコ人だと思えばトルコ人だし、クルド人だと思えばクルド人じゃないか。こと中東では、民族的イデオロギーなんて100年ほど前には一般市民の間には強く浸透していなかった。それが、血で血を洗う紛争の対立軸になってしまった、その過程に大きなヒントがある。」

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我々は、あらゆる【集団の対立】を理解する際に、『善と悪』『この宗教とあの宗教』『この人種とあの人種』と、たった一つの枠組みで単純な理解をするのが大好きです。考えるのって面倒くさいし、自分の無知と向き合う苦痛も伴うものですからそれは当然のことです。

ある問題の当事者であればあるほど、フェアな理解というのは難しくなります。

しかし、様々な立場と観点から客観的に物事を考察しなければ、『人が人を大量に殺す理由』の本質は何一つ分かりません。

例えば、世の中はこんなニュースで溢れかえっています。
「【閲覧注意】仏教徒とイスラム教徒の宗教暴動の果てに…」
こんな2ch住民の書き込みに毛が生えたような言説で、問題の本質の何がわかるというのでしょう。

本質が分からないとどういうことが起きるのでしょうか。我々は簡単に踊らされる「アホ」になってしまいます。ここでいう「アホ」とは、忘れ物をするとか、計算が遅いとかそういうことではありません。「自分の正義、価値観、経験に固執するあまり、物事を様々な視点から客観的に理解できず、選択を誤る人」のことです。

権力者が、人々からの支持を維持して、その権力を正当化するために最も有効な手段は、国民から批判的、客観的思考を奪うことです。すなわち、政治家にとって、国民は「アホ」でいてもらうのが一番良いのです。
歴史も、社会問題も、一面的で、自分たちに都合のいい部分だけがあたかも全体像のように見せて、都合のいい対立軸があたかも全ての原因のように見せれば良いのです。他の国や集団の脅威を煽ったり、貶めたりするのも有効でしょう。支配下の人々が、それに疑問を持たずに受け入れる「アホ」であれば、その統一は強まり、権力者への支持は磐石なものになります。

特に、民主主義国家の指導者は、職を失わないように、自分に投票してもらわなければなりません。票数を維持するためには、「自民族」「自国民」「自宗教」などの都合の良い単位で人々を強固にまとめ、相対的に「他民族」「他国民」「他宗教」が、危険、後進的、野蛮であると規定してしまえばいいのです。

第一次世界大戦以降のトルコの指導者が行ってきたのは、「トルコ人」という曖昧かつ人為的に括られた集団が主体となった「想像の共同体」のもとに、人々をまとめ、自分の権力と人々の自決権を確保するというやり方です。別に私は、そのこと自体を否定するつもりはありません。それによって救われた命も沢山あります。しかし、「ナショナリズムというイデオロギー自体が内包する排他性」を考慮に入れると、クルド問題の泥沼化の大きな要因の一つであることは否定できないでしょう。
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そういう私も、自分が政治家であれば、メディア、教育機関、あらゆるものを使って国民から批判的、客観的思考を奪い、「アホ」な国民を必死で生産するでしょう。そして、紛争などの社会問題について語る際も、メディアなどを効果的に用い、様々な変化球を交えて「あの国が我々を侵略した。攻撃した。あの民族はテロリストだ。○○教徒は、我々の人権観など通用しない野蛮な風習をもっている。」というイメージを徐々に前提化して、あらゆる問題における国民の視点を固定させるでしょう。

これは善悪の問題ではありません。「統治」とは、そういうものです。

その状況を前にして、政治家やメディアを批判することは簡単です。しかし、それで世の中に変化をもたらすことはあまりにも困難です。

「殺される人の数」を世界から減らすために、我々に求められていること。それは、世の中はどうやってできているか、その現状をしっかり直視して、『テロ』などという客観性を欠いた言葉によるデモナイズや、『西洋と東洋』などといった、ある片方の集団の優位性が自明のものであるかのような身勝手極まりない前提、そして善と悪を二分した単純な言説に振り回されないように、「賢く」なることではないでしょうか。

ただでさえ現在、世界の人々は様々な「無力感」を抱えています。環境問題、貧困問題、紛争…世界のどの国を見渡しても、何一つ解決の糸口が見えないものばかりです。

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そんなものにさらされ続ける我々は、ついつい「俺たちは他者より優位なんだ。」「私たちの信条こそが正義なんだ。」ということを確認し、存在意義と安心を得たくなってしまうのです。人間とは実に弱い生き物です。

その弱さに気づき、克服するには何が必要でしょう。

私は、「アホ」に甘んじることなく、人間の弱さに真正面から向き合い、偏りのない知識と批判的思考を身につけることが、その第一歩だと、今は考えています。

遠い国の、日本人にとってはどうでもいい問題を追いかけ続けた大学生活2年半と、その延長線としての10ヶ月の留学は、そのアプローチとして、非常に有効なものであったと思います。
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この記事を書いた人

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Masato Yakabe
現在地:-
from Tosu-City of Saga Hobby; Watching baseball game, listening to music, talking with people, reading a book about Islam, Model United Nation activity

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