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普通であることより合理性を選んだ理系女子

プロフィール

福岡の田舎で育ち、自然の恩恵を存分に受けた彼女は、いつしか論理的な数学や科学を好むようになっていました。高校は福岡県内でトップクラスの福岡高校に進学。大学では、大好きな科学を学ぶために熊本大学理学部に入学しました。しかし、理想と現実は異なり、物足りなさを感じていました。そこで、彼女は大学飛び級を決行。その後、国家プロジェクトであるトビタテ!留学JAPANに採択され、ハイレベルな研究をするためにシンガポールのTEMASEK Life Sciences Laboratoryに留学しました。そこで、世界のレベルを目の当たりにし、挫折しながらも全力で世界を吸収し、今では製薬会社で研究開発を行っています。

まえがき

何か物事を始める時に「誰がやっているか」は重要ではなく、「何がやりたいか」が重要だと思うのです。そのため、私は幼少期から自分がやりたい方向につき進んできました。
私は興味のない人と、上辺だけの関係を築くことに、なんの価値も見出せないタチです。「協調性がない」と言われるかもしれません。それでも構いません。私にはどうしても必要だとは思えないのです。
私は論理性のないことが嫌いです。「社会人の常識」などという言葉を使う人がいますが、正直、愚かだと感じます。例えば、昔は夏の暑い日でもネクタイを締めることが常識とされていました。しかし、現在はクールビズという言葉が流行し、夏の暑い日にネクタイを締める人は減りました。「常識」というのはその程度のことなのです。所謂、「空気」の事なのです。明文化されていない恒久不変でないルールに縛られて生きることは愚かだと感じてしまうのです。
この物語は、そんな私がマイノリティ人の生きにくい日本社会において、「常識」に縛られず悪戦苦闘しながらも自分のやりたい方向に突き進んでいくものです。

幼少期:個性的

この頃の私は、集団行動がとても苦手でした。周りに合わせるのが、苦痛だったのです。他の誰が何をしてようが関係ない。自分がやりたいようにやっていただけです。もちろん、仲のいい人とは居ましたが、それ以外の人は正直どうでもよかったのです。そういう意味で私は協調性が欠如していたのかもしれません。

中学生時代:普通の人

そんな私も中学生になる時には、協調性を身につけていました。身につけたと言っても、習得したわけではなく、まるでプラダのコートを着るように、表面を着飾ることを覚えたという表現の方が正しいかもしれません。協調性というコートは学校という場で過ごすには最適な着物でした。それを着ていれば周りの女の子と上手くやることができました。教師に対しては、「従順」というアクセサリーでも身につけておけば、彼らからの信頼を得ることは容易いものでした。

高校時代:「普通」への嫌悪

私は再度、孤独になりました。極少数の友人はいたのですが、その他は一切関わりませんでした。「協調性」というのは確かに便利な着物でしたが、そもそも興味のない人と上手くやっていくことや、教師からの信頼を得ることに価値を感じなくなってしまったのです。おそらくクラスの半分の名前を覚えずに1年1年を終えていました。かなり斜に構えたJKだったことでしょう。

大学時代:後悔

大学受験を終えた私を待っていたのは、学ぶ意欲のない学生と適当な講義をする教授、無駄の多すぎるカリキュラムでした。それらは私を絶望させるのには十分すぎるほどでした。良い成績を取り、良い大学に入り、いい会社に入ることが至高であると信じて疑わないような学生が集まれば、そんな状況になるのは火を見るよりも明らかでした。浪人してでももっと偏差値の高い大学に行けばよかったと、心から思いました。

大学時代:打破

転機が訪れました。私が所属している学部で新しい制度がスタートすると通知があったのです。学部2年生になるときにその制度に採択されれば、上の学年の講義や実習を受けることができ、研究室に所属する特権がもらえるというものでした。これを利用しない手はないと直感で思いました。本来は早期から専門の知識に触れることを目的とした制度でしたが、私はそんなことよりも、その制度を利用して飛び級することを考えました。「飛び級なんてできない」と言う人もいましたが、その言葉は尚更、私の飛び級への意志を強めました。

大学時代:飛び級

大学を1年飛び級するためには、普通の人が4年で終えることを3年で終えなければなりません。そのためには無駄を徹底的に省く必要がありました。授業は受けれるだけ受け、無駄な飲み会を断り、睡眠時間を削りました。土日は勉強に費やしました。
大学では生物学の道を選びましたが、私は高等学校では物理学を選択していました。そのため他の人とは圧倒的に不利な状態でした。高々、高等学校で学ぶ知識がない程度のことです。自分の学びたいことを学ぶのを諦める動機としては不十分でした。ですが、高等学校で学んでいないために、より長い間勉強する必要があったのは、言うに及ばないことでしょう。
「大学生活は人生の夏休み」という言葉があります。大学生活は楽しい時間であるということを表現したことばです。周りの学生の大半は、所謂、「人生の夏休み」を謳歌していました。そんな彼らを傍目にひたすら学問をやっているときが最も苦しかった時間です。飛び級を諦めれば、おそらく私も夏休みを送れたでしょう。しかし、諦めるという選択肢はありませんでした。諦めたら、私が嫌悪してやまない「普通」の学生になってしまう気がしたのです。無駄なプライドと、誰も成し得たことがないこと(私の大学で飛び級したという事例はありませんでした)を成し遂げたいという好奇心が私を突き動かしました。
そして私は遂に、飛び級を成し遂げました。

大学院時代:海外へ

大学院に入学が決まった直後のことです。「トビタテ!留学JAPAN」という名の奨学金が始まるをことを知りました。私はすぐに挑戦することを決めました。しかし、私は英語が苦手なのです。TOEICのスコアで言えば、600点にやっと手が届く程度です。大学に入ってからというもの、英語なんて一度も勉強していませんでした。そんな私が日本代表の留学生に選ばれるのかは疑問ではありましたが、応募しないという選択肢はありませんでした。応募しなければ受かることはありませんが、応募してみれば受かるかもしれないのです。たった2枚の応募書類に1週間費やしました。面接も出来る限りの事はしたつもりです。その結果、見事、審査に通過しました。シンガポールのTEMASEK Life Sciences Laboratory(日本で言う理研のような場所)への切符を手に入れたのです。植物幹細胞の探求への道が開かれました。

トビタテ時代:反発

これで私は留学にかかる費用全額を、プロジェクトが負担してくれることになりました。しかし、お金を出してもらえる代わりに義務作業もたくさんありました。壮行会に事前事後研修などです。役人から留学内容を留学生同士で共有するように言われました。また、役人は私たちに留学中に日本を海外に発信するように言うのです。役人と役人のプロジェクトが生涯、好きになれないような気がしました。(後に大好きになる)

シンガポール留学時代:海外のレベル

シンガポールに降り立って最初の1ヶ月経った時、私は壁にぶつかりました。実験手法をいろいろ教えてもらってる時のことです。「日本で何してたの?」と言われたのです。更には「何も実験できないのね」とも言われました。ショックでした。私は同年代より、はるかに実験してる自信がありました。しかし、それは飽くまで日本の大学での話だったのです。ここは日本でもなければ、大学でもありません。世界に出れば、私は「何もできない学生」だったのです。所謂、「井の中の蛙」だったのです。飛び級した程度で有頂天になっていた自分が、とても恥ずかしくなりました。

シンガポール留学時代:研究と遊びを全力で

それからというもの、研究を今まで以上に全力で取り組むようにしました。効率的にデータを得るために、3日間顕微鏡を覗き続けることもありました。留学以前に比べると、留学後の実験スピードは3倍になっていました。これまで無かった知見を得ることもできました。しかし、そんな中でも、遊ぶことは決して手を抜かないようにしました。学部生時代に遊ぶ時間が短かった反動かもしれません。1ヶ月に2回はシンガポール以外の国へ旅行に行き、その国の人や、たまたま留学中だったトビタテ生に会ったりしていました。この過程でトビタテが好きになったといっても過言ではありません。トビタテというかトビタテ生が好きになったという意味ですが。
それからの私の遊びへの欲は留まるところを知らず、インドネシアでダイビングのライセンスを取得したり、知り合ったシンガポール在住の社会人と一緒にベトナムやスリランカに行きました。何故か遊びに全力になると研究も捗ったのです。これ以降、私は「何かをするために何かを諦める」ことをしなくなりました。

留学後:社会へ

帰国した私を待っていたのは、就職活動でした。その時には既にインターンや外資系の採用は既に終わっていました。仕方ないと思いながら就職活動をしたのですが、意味不明な制度ばかりでした。
8月が選考スタートだが、実際は4月過ぎから説明会や面談という名目の面接が行われていました。そのため就活に4ヶ月も時間を費やしたのです。熊本在住だった私は興味がある企業が東京か大阪だったため、月の半分は熊本にいませんでした。そのため、全く研究が進まなかったのです。私の研究材料は植物や菌ですので、毎日世話をしないと使えなくなってしまいます。。また、今日セットしたら何日後にこの操作をしなければいけないという決まりがあり、時間にしばられる研究をしていたのです。そんな時に急に選考が入ると、用意していた植物や菌を無駄にして東京大阪へ向かわなければなりませんでした。結果、就職活動の間は全くといっていいほど研究が捗りませんでした。「勉学に専念させるため」に選考を後ろ倒しにしたと言っていましたが、本当のところはどうなのでしょう。そもそも、勉強に専念させたいなら、新卒一括採用なんてやめてしまえばいいのではないでしょうか。日本の就職活動に疑念を抱いたのは、言うに及ばないことです。

残りの大学院時代:わがままし放題

就職が決まってからの私は、最後の大学生活を楽しむために全力を尽くしました。勝手に国際学会に申し込んで、1週間インドネシアに行き、トビタテ高校生増大プロジェクトのために、研究室を抜け出して複数の高校をまわったりしました。教授からは散々怒られましたが、自業自得なので仕方ないと割り切ってその場を凌ぎ、何とか卒業しました。

現在:会社員とは

2016年春から社会人になりましたが、またしても壁にぶつかりました。壁にぶつかったと言っても、何か大きな困難があったわけではなく、ただの会社員として働くことに疑問が生じたのです。会社員は会社に雇われている身ですので、上から降りてきた業務をこなすのが仕事です。古い風習が残る会社ですので、現代には時代遅れだと感じる制度も多くあります。これまで、無駄をとことん省いてきた私には、納得できないことが多すぎたのです。

現在:場所のせいにしない。全ては自分。

そんな時、ふと思いました。入る大学を間違えたと思ったことから飛び級に踏み切ったように、今の働き方に疑問を持っているのなら何かに挑戦すればいいのだと。現状に満足できないことを環境のせいにせず、その状況を打破できるように努力すればいいのだと。これまでそうしてきたように。

この記事を書いた人

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元満 文音
現在地:日本
福岡出身 大学院生 飛び級経験あり 分子生物学専攻 トビタテ!留学JAPAN1期生 2014.08-2015.02研究留学inシンガポール TEMASEK Life Sciences Laboratory

元満 文音さんの海外ストーリー