Canpath
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人道支援日記

チェコ人の獣医、リンテという女性を僕の事務所がある場所よりもそのまた僻地に送り込んだ。彼女は現地職員と共に1万頭の家畜に予防接種を行う。なぜそれが人道支援になるのか疑問に思う人もいるかもしれないが、ここでは家畜は財産。紙切れほどの価値しかない紙幣よりもよほど頼りになる貯蓄形態なのだ。しかし、問題は紙幣と違って財産の多い少ないが誰が見ても一目瞭然で、もちろん財産のある人ほど狙われる。そしてさらに、共同体の中で財産の絶対数が減れば、もちろん争いも増える。共同体自体がジリ貧になればなるほど、過激に殺しあう。そこでリンテの登場だ。人を身構えさせない出で立ちに、控えめな眼差し。ショートカットの髪は現場仕様。医療スタッフとはまた違った鋭さ。僕と同い年くらいだと思うが、誰もが「彼女は大丈夫よ、経験積んでるから」と言う。

1週間経っても彼女は「うん、平気」と言う。しかし。

突発的な戦闘、それに伴う怪我人の発生、複数人いる。他のNGOも動き出す、でも搬送には手が回らない、もう僕のいる場所からは人手を出せない、危なすぎる。道路状況も悪すぎる。搬送中に死亡が確認されたらどうなる?次の手は?その次の手は?リンテから僕、僕から首都のスタッフ、あらゆる手立てを寄せ集め、考察し、取捨選択し、最善最速の道を導き出す。

ヘリを使え。それしかない。

首都の病院に空きがあるか確認だ。臨床医はいるのか。搬送役の医療スタッフは手が空いてるのか。パイロットは朝一で待機できるんだな。天候状態はどうだ。医学的な見地からこのタイムラインで救える勝算はあるんだろうな。リンテ、現場でどこにヘリを発着させることができるんだ?誰に許可を得たらいい?情報だ、とにかく情報だ!

僕はアフガニスタンにいたときを思い出す。戦闘の近くにいたがために傷ついた女性を救うためにあらゆる手立てを尽くした。中核都市でも治療不可能と判断され、最後の砦、首都カーブルの病院へ搬送した。でも、駄目だった。そこで息を引き取った。僕のいた場所に戻ってきたときには、彼女は棺に入っていた。父親はその棺と共に、また戦場へと戻っていった。そこが彼らの、家だから。

あんな思いは、したくない。したくないんだよ。リンテ、これから起こることに恐れず向き合おう。結果がどうなったとしても。


刻々と生存率が少なくなる中、時間はかかったけど、ヘリは無事に飛び、負傷者が首都の病院へ搬送された。

危険を回避してリンテと運良く合流できた保護担当イオンは、感謝の嵐を受けながらも次の一手の可能性を探る。前線を越えたところにも、犠牲者はいる。つまり刃を交えている対立軸の逆側。イオンは情報を僕に向けて必死に投げかけてくるが、首都の幹部連中を動かす決め手に欠ける。救いたいのはわかる。痛いほど。大局を見てもそこに力点を置くべきだ、という説得力が必要なんだ。指示を出し、結果を待つ。陸を使うのか、空を使うのか。陸だとしたら、どのルートを使うのか。どの組織も手を出せない、限りなく先のフロンティアに、人道回廊を渡せるのか否か。遠隔からイオンと真剣に向き合う。こういうやりとりは、嫌いじゃない。

救えないものは救えない。不可能。この仕事をしていると、そうやって割り切ることを覚える。覚えざるを得ない。しかし心はそう簡単には納得しない。自分ひとりがそうやって悩んでいる間にも、同僚が何人も救っている。それを見て、全体で見ればうまく機能していると思えるようになる。限界を認めて行う命の取捨選択に、慣れんるんじゃない。毎回勇気を振り絞って、思い切った決断をする。その決断を信じて、心を納得させながら、前に進む。それを繰り返す。

人を殺めるのも人の性(さが)ならば、救うのも人の性。本能に近いところで働いていると思う。だから、体調がどんなに悪くても、人間の身体は機能する。そういう風にできている。火事場の馬鹿力というやつだ。しかし、火事が長く続く場合、馬鹿力はどこまで続くのか。過去、世界で最も厳しいと言われる国々で、未だ7週間以上連続で働いたことはない。あとわずかで6週目が終わろうとしている。ここからは、未開の境地になる。


前線の向こうにヘリを飛ばす案に青信号が点灯した。つまり、すべての状況が、これなら実行可能で、意義がある、と全員納得するところまではっきりした。

ヘリの着陸位置をGPSで確定。ひとつでも数値を間違えたら患者に辿り着けないぞ。地上で白旗を振るように現地の医療スタッフに伝えて。担架が必要なのは何人だ。誰が現場で搬入を取り仕切る?

首都の最高幹部からメールが届く。
「国際職員がひとり、ヘリの中に絶対必要。明日飛べるのは誰?」
国際職員は、この組織の代表。特殊な訓練を受けて全権を委任された存在。どんな逼迫した状況でも正しい決断を下せると認められた、最終的な責任を負える当事者。うちの事務所には自分の他に4人いる。しかし、他の仕事で忙しいか、この案件を最初から知らない。遠隔からでも事情に精通して常に最新の情報を追ってきたのはただひとり・・・自分しかいない。
「行くとしたら、僕です」
「IDと国籍を、ヘリの統括官に送って。すぐに」

ヘリコプターで戦場に行って、銃で傷ついた怪我人を助け上げて、安全なところへ搬送するなんて、スーパーヒーローみたいじゃないか、と思う。いや、そういう風に思ってた。でも実際の感じ方は大きく違う。アフガニスタンで死体を搬送した時もそうだった。確かに喜ばれるし、人間にとって家族を弔うというのがどんなに重要かという意味を考えれば、スーパーヒーローには違いない。でも死体を間近で見ることでトラウマを受けたらどうしよう、もし手が滑って死体を損傷することになってしまったら、感染症にかかる可能性は、などと考えてしまうし、別に死体を運んだからといって映画みたいにヒロインが突然恋に落ちたり、何か特別なものを得るわけでもない。つまりスーパーヒーローはビビリで、人間的という意味で計算高く、人を救うという経験が将来プラスになるとか、全然考えていないのだ。大体言わなきゃそんな経験をしたって他人にわかるわけもないし、言ったから敬意を受けるとか、なんだか安っぽい気がする。そんな安っぽいことのために、人道支援してるんじゃない。

今回は死体と違って死体袋に入ってたりするわけじゃないから、確実に銃創が深く刻まれた血まみれの負傷者を何人も見ることになるだろう。多くは呻(うめ)いていたり、痛みに堪えきれない表情をしていることだろう。この状況に耐えたとして、地位も名誉も付いてこない。誇りは自分では感じるけど、賞が欲しいとか、他人に尊敬されたくて耐えるわけでもない。ただ、やる。人が目の前で苦しんでいたら、助けるでしょう?誰も褒めてくれなくても。目の前か、ヘリで1時間の場所か、それが関係ない。もっと言えば、目の前か、横浜から京急に乗って羽田空港からドバイとナイロビを経由して国連機に乗って南スーダン国内を縦断してたどり着いた僻地の空港からさらにヘリで飛んだ戦場か、それが関係ない。ただ、やる。そういう人間でいたいと、思うから。


砂埃を巻き上げてヘリがふわりと飛ぶ。ここには書けないが、大変な任務だった。こんなことになるなんて。

ぐったりした表情の患者たちを前にして、同様にぐったりした顔の自分がいる。隣にいるフランス人の医師が水を手渡してくれる。
「昨日の緊急搬送もこんな感じだったんですか」
「いいや、全然」
運ってやつを、どうやら使い果たしているらしいや。
処置がされていない傷口が放つ独特の臭い。汗が顔を滴る。耳をふさぐヘッドセットをつける気にもならない。外をぼおっと眺める。

人間って、どこまで残酷になれるんだろう。

この記事を書いた人

一風
現在地:ミャンマー
オランダの大学院を出て人道支援を始める。現在国際機関に勤務。

一風さんの海外ストーリー